また、春が来ますね。 未選択 2017年03月06日 春の東京文化会館で演奏会、心が躍ります。演奏会の帰りに、桜を見たり、春の風を感じたり、そんな日を待ち遠しく思います。というわけで、演奏会に向けて新曲を書いております。様々ございまして、休む間なく活動させて頂いております。深夜、曲が書きあがるか不安になると、「そうだ 京都、行こう。」の映像集を見て、春に思いを寄せる日々を過ごしております。いや、それよりも、勉強するべきヴァイオリンピアノの曲が多すぎて、楽譜や音源や映像資料など拝見させて頂いておりますが、すごく高い壁が目の前にあるような空気を感じております。なぜかって、ヴァイオリンとピアノ、クラッシックの王道です。なんと、まぁ レパートリーの多いジャンルに挑戦してしまったのでしょうか。これまで私自身、ヴァイオリンを学ぶ学生のための作品「午後の教室への前奏曲」という曲を書いた事があるのですが、これ、初心者向けの作品でヴァイオリンパート簡単なんです。もちろん、演奏会で聞き映えするように書いています、コンクールで公開した作品なので、下記ページで楽譜も配布してます。是非ダウンロードして、どこかで演奏頂けると幸いです。http://negi.jpn.ph/kaizer/music_serious.htmlさて、現在 執筆中の「組曲」は、それに比べるとコンセプトが全く違い、プロの演奏会向け。プロの方の演奏会レパートリーに加えて頂けるようにと思って書いております。4月19日水曜日の夜、東京文化会館の小ホールにて発表させていただきますので、ぜひ、足をお運びくださいませ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー話変わりますが、こんな記事を発見。http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1609/23/news059.htmlhttp://forbesjapan.com/articles/detail/15448AI対人の将棋を見て、人と人がやらなきゃ意味ないだろと思っておりましたが、他人事でなくなるとは。。AIと競わされるのは、精神的苦痛以外の何物でもないと思うのですが・・・。「人を鍛えるものに限る。」という原則があればいいのに、「人間」の営みを害さないものだけならば・・・と。アシモフのロボット3原則のAI版があればいいのに、早急に提言と周知をしていただければいいのにと思ったら、既にありました。https://futureoflife.org/ai-open-letterhttp://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20150626/425124/?P=1しかし、まぁ、サッカーや野球で、人間対コンピューターを見たいのか、将来的にアンドロイド対アンドロイドの試合を観戦するのか・・・。大抵の人が、それはないというのですが、どうやら音楽は違うらしい。音楽の世界、機械の演奏を聴きたいのかと、問いかけたいのですが、既に、機械の演奏をかなりの人が聞いているのですよね。①レコードが誕生してしまって以降、過去の録音を聞くという行為が当たり前に。その後の録音技術の進歩(CD,MD,圧縮データ化)は語り切れないけれど、録音して再生するという行為は変わらず当たり前。これを音楽だと言う現代人はすごく多い。生音か、録音の音か、もう それは別物じゃないのでしょうか。本当に食べられて目でも舌でも香りでも、すべての五感を楽しませる【本物の食べ物】と、目だけで楽しむ【食品サンプル - 蝋,プラスチック】や【食品をカメラで捉えた写真】などとの差ぐらい違いがあると思うのですが。。②PCMシンセの登場以降、誰かが演奏した音を録音したものを、もう一度鍵盤で弾いて再生するだけの楽器(シンセサイザー)ができてしまった。音を生み出そうとする瞬間から過去の音、そして機械の音。シンセのオケか、生音のオケか判別できない人が多いぐらい、録音技術も再生技術もあがってきている。少し前までは、生音とシンセを半々ぐらいのミックスが主流だったのに、今や、シンセだけでも、生音と変わらないと言う人までいる。これって、録音したもの同士を比較している意見ですよね。結局、論点は①に戻っちゃうかな。③ボーカロイドの登場以降、PCMシンセの延長で、人の声をバラバラに録音したものを、鍵盤やデータで演奏して並べ替えるボーカロイドができて、その機械の音声を良いとする感覚の人々が生まれている。僕は歌は人が歌うからいいのだと思いたいんだけど、これは個人の意見ですって書かなきゃいけない時代なのか・・・。例えばこの次の④ができるとすると【④AIが作曲した作品を聞くのが当たり前の時代が到来】なのだろうか。美術鑑賞は人の視点(画家の目線)を通して、対象と接する行為だと思うのだが、音楽鑑賞も人の視点(作曲家の目線)を通して、対象と接するという行為だと思うのだが、果たして、そこまで深く考えて聞く人はどの程度いるだろうか。また、美術作品を通して、製作者の人間性や様々な要素をそこに見出す人もいると思うが、音楽も同じではないのか。「人間の行為でないと意味がない」と思いたいのは、私が作曲家であるからか、人間故か、既に時代遅れだからなのか。あとは、このデータが大量に生み出せてしまう、保存できてしまう状況がある意味、よくないのかも。だって、保存して書ける量が少なければ、人は良いもの、必要なもの、好むものを選んで書いて残すはず。本当に良いと思ったものしか、口に出さず、書かず、伝えず、そうやって淘汰されて、洗練されたり、進化したりするのに。なんでも保存できる時代は難しいのかも。それと、誰でも発信できる時代もいけないのかも。選ばれた人間に責任が生まれて、みんなが注目して、みんなで良いか悪いかを判断するみたいなこともなく、個々の小さな世界が無数に生まれる現状がありますし。こんなに作品があふれていると、誰も判断しないまま、淘汰されずに次の時代に保存されていく。これは恐ろしいことかもしれない。だって、次の時代の人は、どうでもいい情報を大量に引きつがなきゃいけないんでしょ?誰も索引をつける気もしないし、分類だってしないし、引き継がずに放棄するしかない時代が来るよね。ある程度の取捨選別という工程を人間が責任をもって時代ごとにやっていかないと、次の時代に包括的に全体像を把握できる人がいなくなって、文化の継承や発展みたいな課程は途絶えてしまうのでは・・?なんといっても、情報量が増えるとコンピューターの出番で、取捨選択をコンピューターに任せたら、やっぱりそこはもうコンピューターの世界なんじゃないかな、良いか悪いかを考えながら取捨選択を人が持ちうる叡智と良心で判断するのが、人間社会なんじゃないかと思うんですが・・・。そして、まさに、取捨選択の試行錯誤を繰り返して、より良い手段や表現を模索して創作するのが【作曲】という行為だと思うのですが。。。文章にしてみると、すごく幼稚な事を書いている自分に気づかされます。このような文章ではなく、作曲家として、人が書くからこそいいのだと思ってもらえるような音楽を書かねばなりません・・・。 PR