深夜の思索… 未選択 2008年12月05日 睡眠時間の圧縮や保存、分割ができたらいいのだが…、そんなに追い詰められるほどの現実の方が人間的な生活じゃなくておかしいのではないか?とたまに疑問にもなる。 朝の空気を吸い、大地を耕し、風と歌い、暗くなれば家に入り、火を起こして暖をとり、自然と床につく…そんな生活は現代社会にあるわけないのはわかっているが、あまりにも日や時間を意識し過ぎて生活が常に追われていやしないか?と疑問に思えてならない。 時計を作った人は人と人とが時間を共有できるように作っただろうに…結局 人は作ったものに支配されてしまっている。 時計を失うと(近代的生活から解放されると) 逆に人は朝起きて夜寝るという規則正しい生活を送るらしいが…。 人が幸せになるためのサービスをして お互いに支え合って社会は成立しているというのが建て前だけれど、 サービスすることで磨り減って 誰かにサービスするだけになってしまって 行為の意味を見失い 苦しむ人々が増えているのは確かだろう。サービスは、文言化したり形にしたり契約してはいけないものなんじゃないか、と思う。もちろんサービスされて当たり前みたいな感覚を持つ人間達も狂っているとさえ思う。 社会の底辺に近い環境と、上流社会に近い環境でサービスをしてみて思ったが どちらも大して変わらないし みんなどいつもこいつも結局のところ「たかが人間」なのである。 金をもっていようが、権力をもっていようが、知識をもっていようが だからなんなんだ?となるのである。 こんなことを書く私も少し磨り減っているのだろうか…。優しい感情、優しい時間を感じて生きられたらどれだけ幸せなんだろうか…。 今日ふとした瞬間に「大事なのは 常に謙虚に生きること、感謝を忘れないことだよ…」という教養過程の歴史の先生の言葉が思い出された。私はまだ大事な何かを見失わずにいられているだろうか。 夏のスケジュール帳を先日見て笑ってしまった、意識的にプライベートに関しては頭に記憶できる以上の用事は作らなかったし、意図して手帳を使わず、それ以上に関してはどうかしているとさえ思った。どちらにしろ用事をこなす事も難しい状態だったわけだが・・・。 「人が一生の中で移動する範囲は自転車で行ける距離」だった時代もあったという話もあるし、今現在という時代は移動手段が発達し、出会う景色、人が圧倒的に多過ぎるんじゃないだろうか。それは幸せなことであり不幸なことであろう…。意識して携帯を使わない、スケジュール帳を使わない、という選択肢や人生があること、そしてそこに意味がある事を頭の隅に置いておくべきだろう・・・。 PR